文人画は文人の画という属性による区別であって様式語ではありませんでした。
在野の学者である文人と官吏になった士大夫らの 人々の描いた絵画を合わせて呼んでいますが、元未以来、文人画の様式が流派化され南宗画という様式語と混同されてしまいました。
董其昌(とうきしょう)は南宗画と同じく文人画の系譜を王維・ 董源巨然(きょねん)・米(べいふつ)父子及び元末の四大家 としています。
職業画家でない文人 (知識人) の制作する絵画。文人画を規定し、職業画家に優越することを主張したのは中国、明末の董其昌 (とうきしょう) で、彼は絵画技巧よりその内容の豊かさと高踏を重んじ、気韻に富む作品は「万巻の書を読み、千里の道を行く」文人でなければできないことを強調。
同時に唐の王維に始り北宋の董源、米 芾 (べいふつ) 、元末四大家、明の沈周 (しんしゅう) 、文徴明と連なる文人画の系譜を設定した。
董其昌のいう文人画の系譜と南宗画の系譜はほぼ一致するため、論理的には矛盾する南宗画 (山水画様式による分類) と文人画 (画家の社会的身分による区別) を同一視し、これに対する北宗画すなわち職業画家の絵および浙派 (せっぱ) を痛撃し、北宗画、浙派衰退の原因をつくった。
日本では主として明末蘇州派の文人画遺品が舶載され、同時に画譜も輸入されて池大雅、与謝蕪村らの南画家を生み、江戸時代中期以降の南画隆盛の要因となった。
文人が余技的に描いた絵画。
多く水墨または淡彩で自然な感興を描くことが重んじられ、中国で元代に一定の様式をもつようになった。
明代末、董其昌(とうきしょう)らがこの系譜を南宗画と称してからは南宗画と同義となり、日本には江戸時代に入り独自の発達を遂げた。